真面目に振り返る「無関心」と「聞くこと」

話し下手な人は、聞き下手なんだと思う。

私もなかなかの話し下手だ。3人以上になると特に。話し下手というか、話し始め下手だ。話し始める習慣がないので、わざわざそうするのが面倒くさい感覚だ。「慣性の法則」は物理法則だけの話ではないのかもしれない。動かない人は、外部から力を与えられない限り、動かない状態を続けようとする。

最近思うのは、人は他人の話を聞いていない、ということだ。「そういう人もいる」レベルではない。

「本当に全員そうなのではないか」レベルだ。

コミュニケーションは成立してしまう。何かを聞いたら、「わかった事」にしてしまう。今後自分が行動すべきことが発生したなら、自分のメモリ(短期記憶)に残しておいて、メモ帳に単語を残して、そこで終わる。メモリは消去される。

そうでもない雑談ならば、感覚的に「面白かった感」「ぼやけた映像」が残り、言葉やら意味やらは絶えず消えていく。

とある魔術の禁書目録という作品を読んで、完全記憶能力とかカッコイイよなぁとか思ったものだが、そんなに気持ちのいいものでは無いはずだ。今スマホを打つ指の動きも、認識してしまったら覚えてしまうのだから、流石に面倒くさい。 「忘れること」も記憶力の一つらしい。

が、それにしても、忘れすぎである。

どんな話したの?と聞かれてもあまり思い出せない。会話はそこで「完結」してしまっているからだ。

ありとあらゆることを聞き流していたら、それは自分の中に何も残らないし、生みだしようもないはずだ。

人はどこかのタイミングで、「自分は話し下手なのでは?」と思う。

だから聞き上手になろう、だとか、能力を特化させようとする。

しかしそうではなくて、そもそも自分は聞き下手なのではないかと思うところから始める必要がある。 ようやく、私はそう思うようになった。

人の話を聞いていると、例えば何かを思い出すことがある。そこから何か自分の思い出を連想する。その間喋っている人のことは聞いていないし、そもそも相手のどんな言葉がきっかけでこの連想が始まったのか思い出せない。

または、人の情報について何も思えないこともある。「今日初めて行ったパン屋、おいしかったよ」と言われても、そうなんだ、とか、今度行こうかな、とか、それくらいしか沸かない。

まあ、それでもいいといえばそれでもいいのだが、頭は動いていないことは確かだ。

人の記憶は感情に結びついていると、最近切に感じる。

ここでいう感情というのは感情の波のことだ。なんとなく満ち足りている、という時は色々なものがぼやけている。「平和」ではあるが、それはダラけきった平和だ。人はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。だからこそ、幸せは忘れられていく。

人に興味が無い人は、一瞬の疑問を、一瞬で抑制していく。それを繰り返して、感情が薄い人は、きっとどんどん薄くなっていく。

人は人の言葉を学べない。書物から、文字から学ぼうとする。

文字を見て、頭の中で反芻して、また文字を見て、書いてみたりもして、ようやくその原理を理解する。納得する。

しかし人の雑談には(意見の主張っぽいものですら)原理もクソもない。大抵は意味もない。納得のしようがない。もっと知りたいとも思えず、単に興味が持てない。

それでいて、自分は愛されたいだとか、興味を持たれたいだとか、虫のいい事を言ってしまう。

コミュ障だとか、話し下手だとか嘆くならば、まず人の話を聞け。

本気で聞けば、その人の歴史を感じ取る事ができる。自分もきっと何かを思い出せる。何かを「思うことができる」。そんな気がする。

自分は弱くたって構わない。忘れる事も諦める事も簡単だと思う。

それでも何かが悔しくて仕方が無いなら、自分を奮い立たせることでしか、人は前に進めない。