「隙間風パラレルライン」公演を終えて

2018.2.24-25にて、劇団たかはし(仮)自主制作舞台「隙間風パラレルライン」を公演し、無事に全日程が終了しました。自分はその中で、役者、脚本製作、(結果的に)プロジェクト進行補助、音響照明映像監督的なポジションを務めさせて頂きました。

 

2日間で60~70人程度のお客さんに来場頂き、暖かいコメント、ご支援をたくさん頂きました。改めまして、本当にありがとうございました。

 

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きちんと自分の中で整理しておこうと思い立ち、記事を書こうと思います。ネタバレ要素があるので、内容を知らないでおきたい!という方が居れば(居ればですが…)ご注意頂きたく思います。

 

さて、

話は一年前の2月。

前回の劇団たかはし(仮)公演「舞台ノヒ」にて、劇中のコントパートの脚本を実は同期のヨネザワ君が書いていたということを知らされ、負けず嫌いたる俺は「俺も何か面白い話を書きテェ~~…」とイキリ立ってしまった。大学卒業後全く舞台に関わらなかったこともあり、今度こそ俺も楽しい事に混ぜてくれという事で劇団たかはし(仮)の代表たるゆうきさんに打診。いや…違うか…打診じゃなくて誘ってくれオーラを出していただけかもしれない…

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そもそもオムニバスにするのか、テーマは何にするのか、という議論の末、気づいたら「間」というキーワードをテーマに11名の役者が登場するショートストーリー群を全編作成する事に。正直最初は「間って何よ…どういう話よ…」という感もあったが、最終的にはどんどん開き直り、「間」という言葉をボコスカ詰め込みまくった。細かすぎて伝わらなさそうな要素は沢山あり、きっとここでは書ききれないのだが、それはさておき、まずは

 

★結局、この劇で何がしたかったのか

道中、ここをしっかりさせられなかったことにより反省点も生まれているが、改めてこの問いに向き合ってみると、大きくは以下の4つが私の中での「やりたいこと」だったように思う。

 

①後先考えずに笑える話にしたかった

シリアス展開や含蓄のある展開だけで終わらせたくないなと思っていた。結局突き抜けてアホな話にしてしまおう、「この劇は笑っていいタイプのヤツやで」と早いうちにそういう空気にしよう、と思っていた。自分のアプローチとしては、強く芯のあるストーリー設定を作るのではなく、小ボケを100回かます(滑りかけてもタダでは転ばない)ことに心血を注いでいたように思う。

同期の愛すべきガヤ芸人(?)たちが来てくれることにより、半分ぐらい勝ちパターンに入っていた(本当にありがたい)こともあり、本番はある程度いい方向に進んでくれたと思う。普段あまり笑わないあの子が、一度でも笑ってくれたのならば、俺たちの勝ちなんだ。

 

②OBOGが限られた制約の中でも舞台を笑顔でやり切る、という事を示したかった

お客さんが楽しめる、ということもあるが、何より練習している自分たち自身が楽しめるものであって欲しかった。この一年、卒業がかかって気の抜けないメンバーや、社会人キャリアにより責任が増えていくメンバーや、そのほか私生活で大変な思いをしたメンバーも居た。

 掛けられる時間の総量や、心の余裕の総量は学生の頃のようにはいかなくなったのだと、分かってはいたつもりだが、ずっしりと来た。

それでも、どうにか笑顔で作品を終えることができた、ということ自体、俺は大きく意味のあることだったと思う。慰めの言葉ではなく、本当にそう思うのだ。一番嬉しかったのは、見に来てくれた大学生の後輩から、「この年になっても楽しく活動ができるのはすごいと思った/こう年を取りたいと思った」というコメントを貰った事。大げさかもしれないが、俺たちは彼らにとって少し先の未来になることができた。「社会に出ることは大変だが、やろうと思えば色々できるんやで」ということを、言葉ではなく態度で示すことができたように思う。

 

③みんなで歌いたかった

途中で気づいたが、役者のうち、現役時代の指揮者が3人も居た。パートリーダーも居た。

せっかくいい声を持ったメンバーが揃った中で歌わないのは罰当たりだろう。あとは単純に俺が歌いたかったというのもありますが。あそこまでフザケた歌詞で壮大に歌いあげることができるのは、きっと最初で最後だろう。

もう一つ。脚本を書く直前に、「満月を探して」という少女漫画を読んだ。乙女心が分からないと嘆く俺に後輩が推してくれた作品だ。ちなみに読んでも乙女心はあまりよく分からなかった。

主人公の少女・満月が、余命1年を宣告されつつも、アイドル歌手を目指していく話。ラストでは、満月がステージの上で歌いはじめ、そのままエンドロールよろしく関係者の名前が流れ始める。この演出が余韻深く、そういう綺麗な終わり方にしたかったと思ったのだろう。それまでのストーリーを全て投げ出して、終わりよければ全てよし感を求めた。いや、良くねぇよという感じのリアクションは結構あったので、まぁ、そうっすよね…という感じ。

 

④お客さんを巻き込みたかった

お客さんには一日の数割を使ってせっかく来てもらっているのだから、観ているだけじゃ活力を持て余すんじゃないの?というお節介により、相互的に何かをする時間を作れたらいいなぁと思っていた。

何かって何だよ、という面をハッキリさせられず、できたことはクイズ大会くらいしか無かったが、休憩時間にそば打ち体験会を突然始めなかっただけ、自分の常識人サイドに感謝せねばならないだろう。

 

少なくとも最初の3つを実現できたので、他の面で何を言われようと、うるせー!知らねー!finalfantasyという感じで終わらせることもできる。

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★反省点

とはいえ、やはり反省点はきちんと心に留める必要はあるだろう。反省点は大きく3つある。

1つ目は「話同士の繋がりが不明瞭/主題を提起できていない」という点。

そもそも4つの話はそれぞれ独立した話だから、つながりもクソもない、はずだったのだが…書いていくうちに色々やりたくなってしまった。ボケが滑ったら怖いから、少しはストーリー性を持たせたいとも思った。

その結果が、「6次の隔たり」という設定。友達の友達を6回繰り返せば、この世界の全ての人と繋がれる。だから、俺だって友達の友達を6回やれば新垣結衣とも繋がれるしアフリカの少年とも繋がれるのだ。劇中の登場人物の「名前が繋がっている」ことはアピールするほどではなく、本当は彼らどうしの具体的な繋がりをもっと明確に描けていればよかったんですけど。または、繋がりはありません!と明言するがごとくただのコントにすればよかったんですけど。

例えば登場人物が12人居て完全に数珠つなぎ的な知り合いならば、レヴィが友達の友達を6回繰り返せば、全登場人物と知り合いになることもできた(※)が、自分でした設定を忘れたまま脚本を描いたり、数珠つなぎ的な知り合いでもなかったため、ガバガバ理論に。

(※)レヴィヴィータ⇒滝川さくら⇒来世アリサ⇒サイキックダンディー重野⇒ノゲイラロドリゲス高岡⇒加賀谷⇒山崎⇒山崎の子供⇒キリナ⇒ナイア⇒アンドレレヴィ (レヴィにとって最も遠いのが加賀谷)

 

そんなこんなで結局この話は「間」がテーマなのか「繋がり」がテーマなのか「6次の隔たり」がテーマなのか、1つに決められず。

先述もしたが、自分は物語の芯を作るよりも、細部を詰めることにテンションが上がってしまうタイプなのだと分かった。そんな意味では、どちらかというと、どちらかというとだが、脚本より演出向きなのかもしれない。

それから、(恐らく伝えきれなかったが)作品を通して伝えたかったメッセージは何だったのかを挙げるのならば、劇中に出てくる残念な4人のおじさんの言葉に詰められている。

 

Chapter1レヴィ「リンゴから手を離せば落っこちるけど、それが重力によるもんだって自然が教えてくれるわけじゃねえ。人が勝手に思い込んでるだけかもしれないぜ。」

Chapter2重野「俺たちは昨日と同じ明日がやってくると思い込んでいるが、そんな保証はどこにもねぇ。アイドル活動も一緒さ。変化は突然やって来るんだ。」

Chapter3高岡「世界には、客観的な意味など最初から存在しない。お前の欲望を満たしたければ、お前の存在を、やりたいように使えばいい。ただそれだけだ。わかるだろう。」

Chapter4アンドレ「間違いだらけさこの世界は。それでもここが俺の全て。自分の為に今を生きろ、さあ人間よ貪欲になれ」

 

 

2つ目の反省点は(1つ目ともつながっているが)、「お客さんに解釈を委ねすぎた」点だ。

自分は結構、漫画ゲームアニメのストーリー考察を読むのが好きだ。ポケモンの世界が「並行世界」である説とか、ワンピースの家族構成設定や、がっこうぐらしの設定とか。だから、ゲラゲラ笑って終わってもよいし、考察が好きな人は考察してくれたら良いし、観客の好きにして貰えればいいよね、というマインドでした。ですが!それは主幹のストーリーがしっかりしててからの話なので、制作期間に対して、完成度を練る自分の力が不足していたということです!

自分は中途半端に設定を開示されたら勝手に解釈してしまう方だが、お客さんには不明感と違和感だけ残してしまうことが少なくないと分かった。「分かりやすさ」とか、初めから終わりにまで読者を誘導することは重要なのだ。

 

裏設定的な「余地」として、思いつくものはいくつかある。

ネットワークの発展によって、そして出会うはずのない人が春紫町で出会ってしまったので、世界を超えてすべての人間が「6次の隔たり」の範疇で繋がりを持ってしまった。それにより、そもそも「この世界」と「あの世界」の概念的区別が無くなってしまった説…さくら達とヴィータ達が居る世界は時間の流れが異なり、レヴィやヴィータが生きた数十年後にさくらが生まれ、戦争で滅びゆく彼らの世界から彼女の世界に移り住んで来た説…さくら達が居る世界は死後の世界である説…世界は全部で6つ存在しており、今いる世界での死を迎えることで隣の世界に移ることができる(六道輪廻)説…

どれも何というか暗いですね!ということもあり、明示的な採用はしなかった。

 

 

そして3つ目の反省点は、演劇に収められる情報量以上のものを脚本に詰め込んでしまったことだ。

chapter1なんて、始めは倍以上の脚本があり、これ以上削るには薄っぺらになり過ぎるという所まで来た。それでも、扱うテーマはもっと考えるべきだったのかなとも思う。削った結果、キーワードばかりが先行してしまったかもしれない。

 

 

以上が反省点だが、まあ、そもそも芸術は自己満足の世界なのかもしれないし、俺は楽しかった。楽しかった思い出として今回の日々を記憶づけていくつもりだ。

それに加えて、観た方の中に、何か前向きなエネルギーが一つでも生まれてくれたのならば、こんなに誇らしい事は無い。明るい気持ちでもいいし、恨みがましい気持ちでもいい。そうして何かを作って出して、触発しあって、俺たちの人生はきっと豊かになるのだ。

 

その為には自分のやりたい事、見せたいものを色濃く出す必要がある。それは演劇かもしれないし、小説かもしれないし、歌なのか、絵なのか、何なのか。自分を深掘っても「やりたいこと」の石油は湧いてこないのかもしれないが、行動する中で見つけていきたいと思う。どんな形かは分からないが、今回を人生最後のOutputの機会とするつもりか?と自分に問えば、そうはしたくないと言う自分が居るのだ。

生きている間は、「自分を出す」ことを忘れないようにしたい。

 

まあ、それはそれとして、

また舞台をやりたいか?というと、やりたい。が、たくさんの人と時間を巻き込み、中心の近くで「作る」ことを目指していくならば、きちんとこの反省を踏まえて、と言うことだ。

歌う事も、舞台で話す事も楽しいので、機会があればもちろん御誘い頂きければ、とても嬉しく思う。

 

最後に、改めてとなりますが、

見に来て下さった皆様、本当に励みになりました。ありがとうございました。

そして舞台で一緒に戦ってくれた、今回の機会をくれた、最後までこの脚本でノリノリでやってくれた仲間に、心から感謝しています。ありがとうございました。